OLDIES 三丁目のブログ

森羅万象・魑魅魍魎を楽しみ・考える不定期連載ウェブログです。本日ものんびり開店休業中。

吉川英治『三国志(二)』についてつぶやいた(1)

 三国志(二) 群星の巻 (新潮文庫)

    
 巷では既に第10巻が刊行されるというのに、ようやく2巻目を読み始めたところです。
 第二巻 群星の巻 は、曹操董卓暗殺に失敗して逃げる場面からです。
   
P8 曹操が関所に到達すると、既に曹操の逮捕状が届いた後だった。
 曹操董卓から賜った名馬で早駆けしたはずなのに、指名手配はそれより早く届いていた。
 通信手段のないこの時代にしては手回しが早い。
 逮捕状を届けた使者は途中で曹操を追い抜いたのであろうか?
 それとも、別の近道を通ったのだろうか?
     
P8 道尉陳宮、字は公台登場。
 曹操に対して敬語を使い、立場は曹操が上のようなのは、やはり曹操が名家出身で役職も上ということなのでしょうか?
  
P23
「官を捨て、妻子を捨てて共に荊棘の道を覚悟の上で来てしまったのだ。」
   
 曹操と行動するに当たり、陳宮は妻子を捨てたと書かれています。残された家族はどうなったのでしょうか?
 後に陳宮が処刑される時、親や妻子について曹操と問答しますが、その家族のことでしょうか?
  
P25
「この人の天寿を、寝ている間に奪うことは、かえって天の意に反くかも知れない。」
  
 曹操暗殺を留まる陳宮
 何の因果か、後に自分が曹操によって処刑されることになります。
 戦国の世は殺るか殺られるか。
 なお、ここで陳宮曹操の下を去る版もあるようですが、吉川版ではこの後もしばらく曹操に従っています。 
  
P31 スポンサーが付いて兵を集め出した曹操
 雑兵でなく有力者を集めるにはどうしたらいいか、と陳宮に相談。
 檄文を書く陳宮
   
「彼は、心の底から国を憂えている真の志士である。その文は、読む者をして奮起せしめずにおかないものであった。」
  
 陳宮曹操への第一の献策は、檄文の執筆だった。
 そしてこの一件を最後に、陳宮は一旦姿を消します。
          
 個人的に陳宮が好きなので、検索して色々読んでると時間が経つのを忘れます。
       
 wikipedia:陳宮 

My三国志 > 百科事典 > 陳宮(ちんきゅう)
  http://my3594.net/wiki/%E9%99%B3%E5%AE%AE


不遇の軍師 陳宮
  http://www.gundammk2.com/hp/sangokusi/y_san/tinkyuu/y_san_12.htm
それとも三国志 三国志こだわり人物伝 陳宮
  http://homepage2.nifty.com/o-tajima/san/chinkyu.html
むだぺじ人物談。陳宮
  http://freett.com/hararira/sangoku/jinbutu/tinkyu.htm 
どうして陳宮曹操の下で手腕をふるうことを断固拒否したのですか?
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255276607
陳宮は何故、曹操を捨てて呂布の仲間になったのでしょうか? 陳宮から見ると『曹...
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1259034027?fr=rcmd_chie_detail
陳宮曹操を裏切り、呂布を担いぎましたが、結局何がしたかったのですか?
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1271857217?fr=rcmd_chie_detail

P32 檄文に応じて続々と名士が集まって来る。
 第一巻でも劉備が同じようなことをやっていましたが、さすが曹操、規模が違い過ぎます。
 既にこの時点で陶謙馬騰ら後の重要人物の名前も挙がっています。
 しかしこの時点では名前が挙げられただけ。

P39 曹操の檄に応じてやってきた公孫サンの下に、劉備一行が駆け付ける。率いるのは雑兵10名ばかり。
 第1巻では軍団を結成して活躍したというのに、結局、一からやり直しである。
 軍団結成の際には豪商・張世平と蘇双に財政支援を受けたのだが、結局、無駄になってしまった。
 ここでめげずに戦い続けるのが劉備一行の偉いところではないでしょうか。
 あきらめた時が失敗だ。あきらめずに挑戦し続ける限り失敗ではない。

P45 反董卓連合軍の首将に決まった袁紹
「わが弟の袁術は、いささか経理の才がある。袁術をもって、今日より兵糧の奉行とし」
 袁術経理の才があったのですか?簿記の資格を持ってるのかな?
 その後の反董卓連合軍の混乱を見ると、大したことないことは明白。身内のひいき目でしょう。

P52 抜け駆けを図る鮑信・鮑忠兄弟。1巻の終盤、袁紹董卓打倒を呼びかけ、断られたために失望して引退した鮑信が再登場です。
  
wikipedia:鮑信

  
P57 袁紹孫堅の讒言を言う者が。吉川三国志では名前が記されていません。匿名の告発者ということか?
   
P58 孫堅軍の食糧不足を見破り、見事な作戦を立てて打ち破ったのは華雄の副将・李粛。先に呂布董卓方に寝返らせたのに続き、手柄を挙げる。意外と有能な参謀なのでは?
 wikipedia:李粛 (騎都尉)


P80 関羽華雄を討ち取ったことで張飛が発言すると怒り出す袁術。お前は現場のことを分かっとらんのか。現場を知らない経理マンである。
 いまいちの袁兄弟に対して見事な調整役を果たすのは曹操。総務部総務課曹操クンである。  

P95 虎牢関の戦い。呂布と戦う張飛に、劉備関羽が加勢。
「玄徳は左右の手に大小の二剣をひらめかし」

 劉備は二刀流ですか。皇族の末裔で二刀流の使い手とは、今はやりのイケ面風の戦国武将の画風に最適の素材ですが。
 しかし、関羽張飛と一緒とはいえ、呂布に直接対決を挑むとはなかなかの度胸です。曹操ですら呂布と直接対決していないのではないでしょうか。
 しかも呂布を追い込んで敗走させています。
 呂布の一騎打ちの戦歴の中で、この一戦は珍しい敗走の記録ではないでしょうか。
 劉備の「武力」数値は意外と高い値をつけるべきではないでしょうか。

 wikipedia:虎牢関


P101 袁術を呼び止め、兵糧を送らなかったわけを問う孫堅
「この男が足下のことをあまり讒言するので、つい口に乗ったわけで――。」
と言い訳してトカゲの尻尾切りをして逃れる袁術
 こんなんで許していいのか孫堅
 ところで、57Pの記述では、讒言を聞き入れたのは袁紹ということになっています。
 これ、著者が名前を取り違えたのでしょうか?
 今までの愛読者の間では、どういう見解なんでしょうか?
 横山三国志では袁紹に描き替えられていますね。
   
横山三国志にふれる 江東の虎 孫堅
 http://www.gundammk2.com/hp/sangokusi/y_san/sonkenb/y_san_21.htm

  
 しかし、讒言を言った者の名前はなぜ残っていないのでしょうか。
 記録に残すまでもない、ということなのでしょうか?
 しかし、袁紹にしろ袁術にしろ、単なる無名の兵の讒言を軽々しく聞き入れるとは思えず、ある程度名の通っている人物の言うことだからこそ信じた、という面もあるのではないでしょうか?
 何らかの事情で伏せねばならぬ事情があったのでしょうか?

P104 その孫堅の元へ、董卓からの使者が。何と後に活躍する李カクです。
 しかしちょっと待った!
 し水関の戦いで関羽華雄を討ち取った後、董卓は20万の軍勢を二手に分け、洛陽を出発。
 李カク・郭シは5万の軍を率いてし水関に向かい、董卓呂布李儒は15万の軍を率いて虎牢関に向かった、と記されています(P82)
 別働隊の大将である李カクがなぜか使者となって登場!八面六臂の大活躍であります。
 有能なので董卓から信頼され、大役を任されているということなのでしょうか。

 wikipedia:李カク (後漢)
  wikipedia:孫堅


P105 孫堅は李カクを一喝して追い返し、李カクは「ほうほうの態で洛陽へ逃げ帰った」。
 そして、董卓に報告。
 しかし、ちょっと待った!
 P82には、董卓自らが軍勢を率いて虎牢関に向かった、と書かれていたではないですか。
 いつの間にか洛陽に戻っています。
   
董卓は、虎牢関の大敗以来、このところ意気消沈していた。」
 しかし、P100では、
「この日の激戦は、かくて引き別れとなった。」
と書かれています。
 李儒が洛陽から長安への遷都を献策し、遷都を決行するという流れなのですが、その必然性があまり感じられません。
 呂布もいるし、そんなに簡単に大敗しないはずですが。
   
 この周辺、記述に矛盾が色々と見られます。原作は新聞連載だったようですが、
手塚治虫なら単行本収録時に書き直すのではないでしょうか。
 現在まで、この辺の矛盾についてはどう解釈されていたのでしょうか?

P108 朝議で遷都の意向が諮られると、司徒の楊彪らが反対。怒った董卓が朝議を解散して自邸に帰る途上、
尚書の周ヒらが遷都に反対するために現れる。
周ヒは以前、袁紹追討に反対した人物である。
董卓の部下でなかなかの人物だったようだが、ここで命を落としたのが残念。 
 wikipedia:周ヒ
 wikipedia:楊彪


P124 追撃に来た曹操待ち伏せして散々打ち破った李儒
 曹操を追い詰めた軍師としてもっと評価されていい。

P153 玉璽を独り占めしようとする孫堅に対し、袁紹が挑発。
 袁紹が後ろには、顔良文醜などの荒武者が控え……。
 おおっと、この二人は、先に関羽華雄を討ち取った戦いではいなかったはずでは?
「ああ、惜しいかな。こんなことになるならば、わが臣下の、顔良文醜の二大将をつれて来るのだったに」
「後詰めの人数を催すために、わざと、国もとへのこして来てしまったが、もしそのうちの一人でもここにいたら敵の華雄を打つことは、手のうちにあったものを!……」
と総帥らしくない情けない愚痴を言っていました。
 さてはこの時の心細さが余程こたえたのか、急いで国もとから呼び寄せたということなのでしょうか?

P161 袁紹に、公孫サンをだしにして韓馥の領土を横取りする謀略を授けるのは逢紀。
 袁紹方にも色々な謀士がいます。
  wikipedia:韓馥
  wikipedia:逢紀
  wikipedia:耿武  
P174 袁紹公孫サンの戦いが始まります。袁紹の側に控える軍師は田豊
 マイナーな群雄の動きも詳しく描写されているところが吉川三国志の魅力。
  wikipedia:田豊
  wikipedia:麹義


 三国志(一) 桃園の巻 (新潮文庫) 三国志(二) 群星の巻 (新潮文庫)

    
吉川英治三国志新潮文庫版 についてつぶやいた】
  http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/archive?word=%2A%5B%BB%B0%B9%F1%BB%D6%5D
      
■[三国志]吉川三国志に挑戦するぞ!
  http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20130205/p1
■[三国志]ヨヨヨ吉川三国志クイーズ!!
  http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20131009/p1

  
 wikipedia:三国志 (吉川英治) wikipedia:三国志
My三国志 http://my3594.net/

         
     
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