OLDIES 三丁目のブログ

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(朝日新聞耕論)「教養」はどこへ


>そもそも、誰もが共有すべき知識や価値観があるという考え方は、権威を崩してみんな対等だとみなす20世紀後半からのポストモダンの時代に、力を失いました。多様性が重視される時代を背景に「この本は読んで当たり前」という同調圧力は働きにくくなり、教養は雑学や趣味のようなものに変わってきています。

>いま必要なのは島と島をつなぐ対話的教養です。自分の島の知を元手に、他の島の知への推測を働かせ、共通点を探る。そんな「比喩」や「要約」の力を磨くことが大切になります。


教養主義とはいわば、男の子たちによる「自分はどれだけ純粋か」競争です。前途洋々のエリートの卵たちが、あえて立身出世に背を向け、自分が単なる受験秀才や優等生ではないことを自分にも他人にも示す。見栄や背伸びとも結びついたこの不思議な志向が、日本的教養主義の土台でした。思想書や文学を読むだけでは自分を作り上げられない、人格を陶冶(とうや)できないぞ、という教養主義批判も、それ自体、教養主義の一種に他なりません。

>本を読まない人が覇権を握り、昨今の高学歴の若者は、もはや文化的カッコよさを求めたり、知的ヒーローへの憧憬(しょうけい)を抱いたりはしない。月刊誌「ユリイカ」を小脇に抱えデリダとかラカンとかゴダールなどとつぶやく場所を与えられるより、ネットの世界で評価される方が楽しいでしょう(笑)。背伸びをしなくなったし、それはまさに、ネットでは背伸びをした人を冷ややかに見てたたく風潮があるからかもしれない。また単純に、教養を追い求める余裕を多くの人が失っているという側面もあると思います。


>歴史社会学者の福間良明さんは、中卒で就職した勤労青年たちが読書を通じて自分を見つめた「大衆教養」の時代が戦後日本にあったと指摘します。格差という理不尽に直面させられたからこそ知に触れようとした非エリートの人々。そこには何があったのでしょう。

古書店で、人生雑誌と呼ばれていた雑誌の復刻版を入手したのです。1950年代を中心に読まれていたもので、読者の多くは中卒で働く青年でした。文学や歴史、哲学、思想にかかわる記事が載り、読者の投稿や作文もありました。代表的な雑誌は「葦(あし)」や「人生手帖(てちょう)」でした。

>「経済学部に入ったのに、なぜ文学の授業をとらなければいけないのか」。大学の一般教養のカリキュラムではそうした不満がよく聞かれますが、そうして仕方なく授業をとることで新しい「知」への興味が生まれることも実際にあるからです。こうした偶然の出会いを生み出せることが、教養という領域の持つプラスの可能性だと今は思います。

>ネット検索の現代は、興味のあることだけに没入できる時代です。人々が知と触れあう場の中に偶然性をどれだけ埋め込めるか。それが「教養」の現代的な課題なのだと思います。


教養とは、人生雑誌に見る向学心
  https://diletanto.hateblo.jp/entry/2024/09/21/090901

かつて自由大学という場があった
  https://diletanto.hateblo.jp/entry/2024/09/28/174306

今からでも?リベラルアーツの学び方 瀬木比呂志
  https://diletanto.hateblo.jp/entry/20180721/p1

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