
検定不合格 倫理・社会
久野収 中山千夏 森岡弘通 矢崎泰久 山領健二
1978年9月30日 第一版第一刷発行 三一書房
『あたらしい憲法のはなし』について調べている時、そういえばこんな検定不合格教科書もあったと思い出しました。
教科書検定といえば、家永三郎さんの日本史教科書裁判が有名です。
ところが倫理・社会教科書でも検定不合格になって市販された教科書がありました。
家永教科書裁判については時々新聞でも記事になっていましたが、こちらの倫理・社会教科書については新聞でもあまり言及されることはなく、私も長い間存在すら忘れていました。
本書は横書き部分と縦書き部分のダブル表紙構成。
横書き部分は検定不合格となった高校倫理・社会教科書で、縦書き部分は関係者による問題提起の小論集となっています。
久野収【一つの感慨】では、教科書制作の言い出しっぺとなった久野収さんが一連の騒動について回想しています。
大学教授や高校教諭ではなく、矢崎泰久や中山千夏などのような無学歴派で個性的な人々が執筆した教科書が必要だと思ったということです。
「彼らであれば、大学進学をあきらめなければならなかった高校生の大群が実社会へ出てからも、読み直しできる教科書を作れるのではないかと思ったからである」
……となかなか良き意味での教養主義的な理想論です。
当時はまだそのような教養主義の若者もいたのでしょうが、教養主義がむしろ馬鹿にされる風潮である現代(いわゆる反知性主義的風潮)から見れば、格調高く理想主義的のように感じてしまいます。
特に現代は読書よりもネットやゲームに時間をかける人が多くなっているような気がします。
矢崎泰久【発端から「検定不合格」まで】では、一連の騒動をもっと細かく記述されています。
1975年暮れに久野収さんから矢崎さんや中山千夏のような無学歴派が現実に立脚した視点から書いた教科書が必要だ、と勧められたということです。
執筆者や編集協力者は以下の人物。
久野収
矢崎泰久
山領健二 麻布学園教諭
森岡弘通 実践女子大学講師
中山千夏
青柳知義 高校教諭
山倉稔子 高校教諭
佐高信 現代ビジョン編集長 元高校教諭
ここに佐高信さんの名が出るとは驚きです。
私は一時佐高さんの著書が出るたびに購入して読んでいた時期があります。
佐高さんの文章は以前書いた話題の繰り返しが非常に多く、何度も出てきたりします。
確かに佐高さんには久野収に関する著書もありますが、検定不合格教科書の話題は一切出なかったと思います。だから私もこの検定不合格教科書については長い間意識に登ることはなかったのです。
佐高さんにとってこの問題は思い出すのも嫌な話題になっているのかもしれません。
しかし結果は二度に渡る不合格。その間の時間的・経済的損失は報われなかった。
中山千夏【教科書検定制度のなかみ】は、教科書検定の仕組みについて解説。
「サジかげん一つの評定法」という見出しにあるように、検定される立場から見ると不透明でよく分からない制度のよう。
公平公正に行うという建て前から教科書の会社や執筆者は伏せられているということになっているが現実は筒抜けになっているそうです。
山領健二と森岡弘通【文部省の言い分と私たちの立場】では、言いがかり・嫌がらせのような文部省とのやりとりを伝えています。
特に女性問題・日本の思想史・現実の倫理的課題に関する記述のやり取りについて詳しく書かれています。
中山千夏【異議申し立て】では、
「落としたければ何度でも落とせる?」
「私たちの姿勢そのものを否定した文部省」
と文部省を批判した後、
「三度目の検定提出を読者へ」
「どうですか、みなさん、こんな「倫理・社会」の教科書があったっていいじゃない、とは思いませんか?」
と結びます。
教科書執筆の中心となった中山千夏や矢崎泰久は「革新自由連合」という政治運動を行っていたようです。
体制側から見れば「政権に異を唱える不逞の輩」のように見えたのかもしれないので、余計に検定が厳しくなったのかもしれません。
執筆陣の間でもそういう意見があったようです。
実際に不合格となった教科書を拝読します。
第1部 現代社会と人間
1 人間をつくる社会集団
2 現代の社会
3 青年と社会
第3部 現代社会と倫理
1 人間と倫理
2 現代社会の倫理的課題
3 人間を結ぶ倫理
若者を取り巻く哲学的問題と申しましょうか。
漠然としているようで哲学的で興味深い。
特に第3部は執筆者が読者に問題提起しているような考えさせているような書き方です。
教科の勉強というより、「名著講読」ゼミの対象テキストといった感があります。
高校の教科というとテスト問題とか大学受験とかを考えるのですが、これらの項目でどう問題を作るのでしょうか。
テスト問題というよりレポートや小論文提出の方が向いているような気がします。
第2部 人間と思想
1 思想の源流
2 西洋思想の流れ
3 日本の思想
いわゆる思想の歴史。著名哲学者が頻出します。
西洋思想についてはチンプンカンプンです。
何せ著名思想家の思想を数行で紹介するのだから、意味が凝縮しています。
日本の思想についてはよく分かりました。やはり私は日本人なんですね。
第1部の「国民の政治的無関心」の項目で、2026年の現代を予言するような記述があります。
「政治的指導者や候補者は政党その他の政治団体が一方的に選んで国民におしつけ、しかも彼らは、多くの場合、政策や政治的討論をとおして国民の理性に訴えるのではなく、むしろ笑顔や親しみのある身振りや単純なスローガンのくり返しや利益誘導によって国民の利己心や感情を動かそうとする。
そうなれば国民はたんなる操作の対象でしかない。
その上このような選挙によって国民の選択と同意をとりつけたとする政治的権力の担い手たちは、この特殊問題にかんする同意を白紙委任状にすりかえ、自己の力を国民のためにではなく、逆に国民の富や力をすべて自己の力のために利用して、ますます強く国民の生活に作用を及ぼすから、国民の側の無力感や無関心はいつまでたっても解消されない。」
(読みやすさのために句点の後改行・行頭一時空けを入れた)
日本の民主主義破壊の決定的事件となる2026年2月の衆院選を予言したかのような一文です。
……ということで、なかなかの力作でした。
執筆者達は他の倫理教科書は一つの型にはまった表面的なものであって、それらとは違う教科書を作りたかった、ということです。
私は高校で倫理を学ばなかったので他の教科書はどう書いているのか分からないのですが、読み比べてみても面白いかもしれません。
ただ、執筆当時と現代では大きく時代背景が違っています。本書の記述も現代では時代遅れとなっていることは否定できません。
執筆陣は教科書不合格は残念だったと書かれていますが、高校倫理教科書をそこまで神聖視することなかったのでは、と思います。
高校において「倫理」という科目はマイナーであって、履修する生徒は多くないのではないでしょうか。私も履修していません。
それに履修するにしてもこの教科書を使うとは限りません。
つまり高校教科書とは、入手するのも読むのも非常に困難で、読みたいと思ってもすぐ読めるものではありません。
「副読本」と銘打って一般書店でも入手できる一般書として販売した方がもっと自由に記述できたし、高校生はじめ知的好奇心旺盛な読書家にアピールできたかもしれません。
その意味で「検定不合格」と銘打って本書を発売したのは皮肉がきいて良いと思います。
本来ならもっと話題になってベストセラーになっていてもおかしくはなかった企画だと思うのですが。
過去にこのような出来事があったという記憶は継承していくべきではと思います。
また、当時を知る人が少なくなっている中、現在も旺盛な発信を続けておられる佐高信さんもこの事件に対して掘り起こして頂きたいと思います。
【編集後記】
私が高校生だった頃は、高校一年時は「現代社会」が必修科目でした。
内容的に今回読んだ「倫理」と共通するところもある、今思うと興味深い科目でした。
しかし当時の私は重度のうつ状態にあり、本も読めない状態に追い込まれていて
当然の如く好きな学問も全く身に入らない状態でした。
結局精神状態は改善せず50前後まで後をひいて人生も失敗しました。
今頃ようやく改善の方向にあり、少しでも後れを取り戻そうと悪戦苦闘しているところです。
●ブクログ https://booklog.jp/item/1/4380782182
●読書メーター https://bookmeter.com/books/2446936
[wikipedia:久野収]
[wikipedia:中山千夏]
[wikipedia:矢崎泰久]
[wikipedia:佐高信]
[wikipedia:家永三郎]
[wikipedia:革新自由連合]
「革新自由連合」という、1970年代後半から1980年代前半にかけて活動した政党の実録本
https://www.instagram.com/p/DMc9DLBP0HV/
[wikipedia:倫理 (科目)]
[wikipedia:公共 (科目)]
[wikipedia:高等学校公共]
[wikipedia:社会 (教科)]
[wikipedia:社会科教育]
[wikipedia:公民教育]
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