OLDIES 三丁目のブログ

森羅万象・魑魅魍魎を楽しみ・考える不定期連載ウェブログです。本日ものんびり開店休業中。

アマチュアの知識人

 私が発行しているメルマガ「少年少女世界の名作文学」の4月号で、宮下志郎『ガルガンチュアとパンタグリュエル (1)』
ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫) ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)
の刊行にちなんで、『ガルガンチュワ物語』を取り上げました。
 (参考)児童名作全集の冒険・ガルガンチュワ物語
   http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20040409
 
 そこで、この翻訳を紹介した新聞記事も引用しています。

“「ガルガンチュア」の新訳を62年ぶりに刊行した東大教授”
というタイトルで、2月22日のA新聞ひと欄に、訳者の宮下志郎さんが掲載されて
いました。

 ラブレーに最初に出会ったのは東大2年の時。あこがれていた小説家、大江健三郎さんの師でもあった渡辺一夫さんが30年以上かけて心血を注いだ「歴史的名訳」に魅了されてのめり込んだ。
 5年ほどまえ、出版社から新訳を打診された。そびえ立つ渡辺訳へのプレッシャーから一度は断ったが、「自分なりのラブレーを」と決心した。

……と、かなり大変な決心をされたことが伺われます。

 そして丁度4月12日に、大江健三郎が「伝える言葉」という新聞の連載で、渡辺一夫に指導を受けて文学の研究に励んだ若き日のことなどを書いていました。
“アマチュアの知識人 社会のなか思考し憂慮する”
というタイトルがついています。
 大江健三郎は、高校2年の時岩波新書渡辺一夫の著書を読み、この方に教わろう、と東大フランス文学科に入ったそうです。
 高2で将来を決めた、しかもそのために東大に合格した、とはまた、すごいことです。
 しかし目的意識があれば、意外と受験も楽になるのかもしれません。
 私も高校時代に、将来について・大学についてもっと真剣に考えるべきだったと後悔しています。

 大学院を断念した私は、卒業式に出られないほど思い屈していました。

 これは残念な鬱屈した感情だろう、と思っていましたが、先ほどはてなのキーワードで見ると、大江健三郎は大学在学中に文壇デビューしていたようです。
 私としては、大学院なんかに行くより小説家デビューの方が余程いいではないか、と思うのですが。
 そして大江健三郎渡辺一夫に呼び出され、アドバイスを受け、その通り実行して結果を出していきます。

 先生はこれから専門機関と無関係にひとりで仕事をする卒業生に「独学」の方法を示されたのです。それが私にとっての生涯の、最良の教えとなりました。

 大学在学中に作家デビュー、とは、すごいことです。しかし反面、そこで天狗となってしまうと、成長がなくなります。
 天狗となった、或いは壁に当たった大江健三郎と、それを導いた渡辺一夫
 理想的な師弟関係でしょう。
 また、大江健三郎自身、東大合格、文壇デビューなどで分かる様に、元来素質や実力があったのでしょう。
 大家渡辺一夫が打てば響いた、ということでしょうか。
 
 この大江健三郎の文章、学問や文学といったものに関心がある者にとって、この後の部分は味わい深く、全てを引用したいくらいです。
 
 なぜ仏文科に進んだか、と大江健三郎は夏休み帰省中に問われ、うまく答えることができず、母親を落胆させます。
 この辺りのもやもや感、私も理解できます。
 私自身、本来は文学部向きなのに、虚学でメシは食えない、という家庭的圧力を先読みして感情を押し殺し、あえて実学の方面に進んだ経験があるからです。

 若い私が新しい習慣にした読書法は、いまから振り返ると、ボンヤリとながら知識人になりたいとねがっている「独学」の方法だった、と思います。つまり、それで知識人になれるかどうかは別にして、さしずめそうした方向にしか役に立たないものでした。実用には結びつかず、なんらかの専門家になれるのでもありません。

 そしてE・W・サイードの『知識人とは何か』からの引用に続きます。

《現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。》その上での活動が、国家や権力、また自国や他国の市民の一般的な風潮と対立することがあっても、こうでなければならない、と《知識人はモラルの問題を提起する資格をもつ》。

 実はここまでのことを、大江健三郎は東大の文科系と教養学部の卒業式での祝辞で話したようです。
 そしてその式辞はこう締めくくられたようです。

 大学で得た専門知識を伸ばすことも大切だが、すぐには役に立たぬ知識人の(アマチュアとして個々それぞれに楽しみ、積み上げる)読書を、もうひとつの新しい習慣としてもらいたい、と私は祝辞をしめくくりました。

 文科系や教養学部の卒業式の祝辞としてふさわしい内容だと思います。
 
 ただ、大江健三郎が行った「独学」の方法は、全ての学問に応用できる方法ではないと思います。
 特に理系科目は、実験・実習の比重が高いものです。医学など人間に関する学問は、実習が必要です。
 そういった独学の限界というものはありますが、それでもこの指摘は大切だと思います。
 
 知識人がアマチュアたるべき、とするサイードの言葉も、深い意味があるのでしょう。
 大体私はサイード氏は名前だけしか知りませんから。
 本を書いて印税をもらっているのにアマチュア、とはこれいかに。
 知識があやふやとか責任感がないとか、そういった悪い意味で使われてはいないでしょう。
《社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。》
 という文章が大事なのでしょう。
 知ったかぶりせず、非専門家の目線で一歩引いて見ることでしょうか。
 
 現在、ブログの普及で、専門家のように発表媒体を持たない一般庶民でも、意見を発表することが簡単にできるようになりました。
 文字通り、アマチュアが発言する時代です。
「知識人はアマチュアたれ」
とはいっても、
「アマチュア=知識人」
ではありません。
 知ったかぶりして偉そうなことを書くのではなく、謙虚に学問・研究に努めることが大切でしょう。
 学問とは、研究とは、知識人とは。
 人それぞれに定義があり、同じ人でも、状況に応じて色々な定義があるでしょう。
 今回の大江健三郎の文章は、それを考えさせられる一つの材料として意義深いものだと思います。
 

        
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