「エルトゥールル号海難事故」と「テヘラン邦人救出劇」をテーマとした映画。
「『海難1890』を成功させる会」の最高顧問が気に入らないのですが、この映画もあいつが関係していたんかいとげんなりするのですが、ここはそういう政治的な問題には触れないことにして、とにかく内容は感動的な映画でした。
安倍信者の好きな「ニッポンスゴイ」的なテーマなんですが、しかし一番大切なのは、自分がもし串本・大島の島民や空港のトルコの人々のような立場の時に自分を犠牲にして外国人を助けることができるのか、ということでしょう。
つまり、自分が貧しい時に他人を助けられるか、自分の命が危ない時に他人を助けることができるか、ということです。
つまり、「自己犠牲」の姿勢は一見すると「自虐的」なことであるし、「国益」に反することかもしれないのです。
自分の国の国民が犠牲になるかも分からない決断をしたトルコ首相は、一つ間違えば「国益」を主張する似非国士から批判されたかもしれません。史実では成功したわけですが、もしこれが何らかの犠牲が出ていたら本当に批判されていたかもしれないのです。
単純に「ニッポンスゴイ」と喜んでいるだけではなく、自分ならどうするのか、自分事として考えたいと思います。
春海(忽那汐里)とムラト(ケナン・エジェ)の個人的な関係から救援機出動に至る過程はわらしべ長者に通じるような幸運のカスケード反応です。
ウィキペディアの【エルトゥールル号遭難事件】の「イラン・イラク戦争での逸話」では、日本の大使がトルコ大使に相談したと書かれています。春海とムラトはフィクションだったのでしょうか。史実はどうだったのでしょうか。
しかしトルコの人々が空港であれだけ殺気立っている時に、ムラトの演説で翻意するというのはうまく行き過ぎのような気がします。自分の命が危険にさらされている時に一人が演説するだけで納得できるものでしょうか。とりあえず、あのトルコの方々はエルトゥールル号の事件を知っていたのでしょう。
しかしもし理性よりも本能を優先する人が
「過去のことなど知らん。自分の命の方が大事や」
と言い出したらどうなっていたでしょう。
とにかく今は本音優先で、昔は人前で言うことをはばかられたようなことを平気で言う風潮が出てきました。それもあろうことか、政治家がその風潮を実践して後押ししているくらいです。例えば生活保護批判だとか。日本人が外国でテロ組織に人質になった時は政治家やその支持者が「自己責任だ」と言って人質を批判する始末です。戦争中の日本のアジア侵略についても「生まれる前のことは知らん」と言う政治家がいるくらいです。
それはともかく、自分の命が危ない時に日本の方々に救援機を譲ってくれたトルコの方々には感謝します。果たして自分にはそれができるか、ということを常に考えないといけないでしょう。
そして、これは映画だったのですが、フィクションなしの史実ではどのようないきさつがあったのか興味あるところです。
●ブクログ
https://booklog.jp/item/1/B01C2M450O
https://booklog.jp/item/1/409406236X
エルトゥールル号本人が激白!これが遭難の真相だ!!
【エルトゥールル号の遭難】寮美千子
https://diletanto.hateblo.jp/entry/2022/11/08/205719
【アンケート実施中です!ご協力お願いします!】
地球の温暖化を実感しますか?(2022年10月~12月調査)
https://blog.with2.net/vote/v/?id=236475
黒い色以外のパソコンを使いたいと思いますか?
https://blog.with2.net/vote/v/?id=233333
あなたは速読ができますか?
https://blog.with2.net/vote/v/?id=231449
↑人気blogランキングにご協力お願いします。m(_ _)m
↓また、ご意見ご感想・ブックマークなど頂けましたら励みになります。
コメントやはてなスターもお待ちしております。m(_ _)m