「追わないわけにはいかない。しかし、見つからなかったら仕方がない」
と近藤は、沖田に言い含めて送り出す。
この方法、柔軟でよい。建て前上、隊士に示しをつけ、本音では山南を逃がそうとしている。こういった知恵、実生活上でも使っていきたい。
そして、沖田が山南を見つけるのではなく、山南が沖田を見つけて自ら名乗りを上げる。
山南は明里(鈴木砂羽)に、隊から逃げているのだと正直に告白していればよかった。明里のような人なら、どんなことをしても逃げる方法を模索したのではないだろうか。
しかし、沖田を見つけるまで、山南はどうするつもりだったのだろうか。
「草津までは急ごう」
と明里を急がす場面もあったし、
「見つかった以上、逃げるわけにはいかない」
と沖田に言っている。
ということは、沖田を見つけるまでは、逃げようという気はあったということか?
それにしては歩くペースがゆっくりだったが。
なぜ逃げた、と問う沖田に答えて山南は
「しいて言うなら、疲れた。」
やはりこれは、燃え尽き症候群というか、ストレスによる心のかぜのような状況ではないだろうか。現代でも仕事熱心な真面目な人がよくかかる症状であり、現代の我々にとっても人ごとではない症状である。
「そんなのみんな疲れてますよ。こっち来て働きづめだし」
やはりみんな疲れているのか。それでストレスに弱い人から心のかぜをひいていくのである。炭鉱の中のカナリアである。
見なかったことにするから、逃げて下さいと頼む沖田。しかし山南は、見つかった以上、逃げるわけにはいかないと断る。
翌日、戻ってきた山南を見て、近藤は戸惑う。
「どうして戻ってきたのだ。
我らの気持ちをなぜ察してくれない」
確かに、山南がうまく逃げていれば、万事うまく収まった。この後の悲しく辛い経験をしなくてもよかった。
組織としては、決まり通り、逃亡者に切腹を命じなくてはならない。
近藤や土方が、山南への友情を持ち続けていたのなら、山南には馬鹿正直に帰ってきてほしくなかったのだろう。
一方、山南としては、沖田を見つけた以上、正直に名乗り出ざるを得なかったのだろう。この気持ちも分かる。
組織社会の、或いは、武士としての、或いは、男としての体面と誇りが、このような悲劇をもたらしてしまった。
山南が戻ってきた直後の近藤と山南との2人だけの対話シーンは、結構長かったが、見ごたえがあった。
「近藤勇と新選組は、私の手の届かないところに行ってしまった」
「ここにはもう私のいるべき場所がない」
と告白する山南に近藤は、
「こうなる前にあなたの思いに耳を傾けることができなかった自分を恥じ入るばかりです」
確かに、芹沢がいた頃は近藤・土方・山南の三人体制で難問を乗り切ってきた。ところが芹沢亡き後、池田屋事件の恩賞問題にしろ、山南を左遷することになった新組織の発表にしろ、近藤は山南を外し、土方と突っ走ってきた感がある。山南が手が届かないとか、居場所がないと思うのももっともである。
だからこんな辛い決断をする羽目になる前に、相互理解に務めるべきだった。
実生活でも、不満を人に話すだけでも、大分ストレスが発散されるといいます。
新選組新加入組でも、対応が分かれた武田観柳斎(八嶋智人)と伊東甲子太郎(谷原章介)。
武田が、「もう決まったことだから」
と軽く済まそうとするのに対し、腹に一物ありそうな伊東が意外にも情のあることを言う。
「厳しさだけが人の心をつなぎ止めておくための方法だろうか。温情を与えるということも……」
もちろん、近藤も土方もそのことは知った上で、組織を維持する体面上、切腹を命じるしかなかったのだろう。今さら伊東に何を言われようが……という心境なのだろう。
土方も、新見や葛山を法度を楯に切腹に追い込んできた手前、今回を例外にするわけにはいかなかったのだろう。かつての無茶の報い。
しかし、何か思惑ありそうな伊東が今回意外にも発言が多かった。自分の存在をアピールしているのだろうか。
近藤や土方に叱られた時に見せる伊東の表情が複雑である。どういった心境を表しているのだろうか。
永倉に説明を求められた近藤。
「すでに山南さんは覚悟を決めている。今我らにできることは、武士にふさわしい最後の場を用意してやることだけだ」
部下達が侃侃諤諤としてきた議論を終わらせた局長の言葉。さすがにこう言われれば、黙って納得しないわけにはいかない。
カギは、残る者がどう思うか、残る組織がどうなっていくか、という観点からの発言ではなく、山南の立場に立っての発言だ、ということにある。
山南自身が切腹を望んでいるなら、そうするしかないではないか。
山南の部屋を見張っている島田魁(照英)。
やはり島田魁は、永倉と離れてしまったのか。
島田と永倉が友人なら、何も永倉が
「土方さんが呼んでいる」
と嘘をついて見張りを外させることもなかろう。
「思い出した。渡したいものがあった」
と応じて調子を合わす土方もいい。
しかし、井上源さん(小林隆)の時もそうだが、ここで本当に山南が逃げていたら、その後どうなっていただろうか。本当に収集がつなないことになっていたのではないか。
ところで、山南を見張る役目を言い付かった島田は、今度の事件に対してどう思っていたのだろうか。
また、口実にされた土方は、二度目にどんな反応をしたのだろうか。これも気になる。
「私が腹を切ることで新選組の結束はより固まる。それが総長である私の最後の仕事です」
と土方に言う山南。
実際、新選組は幕府崩壊後も存続し、戊辰戦争を戦い、北海道の五稜郭の戦いまで存続していたのだから、組織はしっかり守られた。
情に流されず組織を守った近藤や土方。
自分の死で組織を守った山南。
よく考えてみれば、これは、組織社会の、或いは“理想化された”武士道の論理で動いている。或いは、建て前というか。或いは、男社会に代表されると言っていいか。
一方では、これに対照的な、個人主義、或いは本音の世界とでも言うべきものがある。
「うまく沖田から逃げて隠れ通し、幸せに過ごそう」
というような考え方である。
そういう観点から見れば、今回の事件は、組織社会の論理が生んだ悲劇だろう。
そして、そういった組織の論理、或いは武士の論理から自由にものを考えて新しい時代を切り開いたのが、坂本龍馬だろう。
「武士道を見直そう」「武士道に戻れ」というようなことが言われるのではないだろうか。
しかし、閉塞した感のある現代の社会でより必要なのは、坂本龍馬に代表される、組織から自由なとらわれない変幻自在の考え方ではないだろうか。
地球的規模から見れば小さな組織・を守るために個人が個人の幸せを犠牲にすることを要求されるようではいけない。
もちろん個人が勝手放題するのも問題がある。組織を守ることと個人の幸せを守ることのバランスが取れていける社会が平和と言えるのではないか。